
最後の蓮 2
- Reiko Yamazaki
- 6月14日
- 読了時間: 4分
更新日:6月15日
いつものように制作していた午後のことだった。下図の微調整を重ね、ようやく本画に取りかかったところだった。
筆に白い絵の具をつけ、最初の花弁を描き始めた瞬間、直感が走った。
「これが最後の蓮の花かな」
その確信は、理由も疑いようもなく私の心を貫いて手が震え、筆を握る指にも力が籠もった。
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。他の作品と大きく異なるわけではない。下図もこれまでの延長線上にある。
しかし、なぜか確信は揺るぐことがなかった。
筆を進めながら、私は記憶を巡らせていた。
これまで蓮の花をしばらく観察していると、世界を俯瞰しているような気持ちになっていた。まるで雲の上から地上を見下ろしているような、時間を超越したような視点だ。長い時間を凝縮し、蓮の花の一生を観ているようだった。土の中で眠る種から始まり、水中で芽吹き、水面に葉を広げ、茎はしっかりと光に向かって伸び、やがて美しい花を咲かせる。そして散り、朽ちていき、土に還る。その永遠の循環が、目の前の小さな世界に凝縮されているような気がした。
しかし、それは蓮の花の一生だけではない。私自身の人生、あらゆる人の人生、この世界に存在するすべてのものの生と死の循環であり、それらすべてが、ここに集約されているようだった。
ある夜、私は最初に蓮の花と出会った池のほとりのあの日のことを思い出していた。
花に全く興味がなかった私が、なぜ心を奪われたのか。
思えば、それは不思議な出会いだった。もともと花は好きではなかった。花そのものを主題にすることなど考えもしなかった。ましてや蓮の花は最も敬遠していた題材だった。
多くの画家が描いてきた蓮の花。仏画、江戸時代の琳派、近代の画家まで、数え切れない先人たちが筆を取ってきた。その伝統の重さが、かえって私を遠ざけていた。「あえて描く必要性を感じない」というのが、正直な気持ちだった。
しかし、あの夕暮れの一瞬が、すべてを変えた。抜け道のため通りかかった池のほとり。たまたま角度よく差し込んだ夕陽と咲いていた一輪の蓮。そして、私がそれを見た瞬間。
偶然の重なりが生み出した必然といってもいいかもしれない。
あの時、初めて感じた衝動。それは「描かなくてはならない」という、理屈を超えた欲求だった。それまでの人生で経験したことのなかった、強烈な創作欲求だった。
最初の作品から十年以上の歳月が流れていた。その間、私は多くの蓮の花を描き続けてきた。
周りからは奇異の目で見られることもあった。「同じものばかり描いて」「時代遅れだ」。
そんな声に傷つくこともあった。
しかし、今思えば、あの選択は正しかった。一つの題材を突き詰めると見えてくる世界がある。表面的な技法を学ぶだけでは到達できない境地がある。
蓮の花は、私に多くのことを教えてくれた。忍耐力と集中とそして、真の美しさとは何か。
背景に用いる黒の意味もこの長い制作の中で理解した。影は単なる暗闇ではなく、存在の証明。光があるから影が生まれ、影があるから光が際立つ。その相互関係の中にこそ、美しさが宿る。
私の絵の中の黒は、全て何かの影だと気づいた。そこには暖かさと冷たさがある。その両義性こそが真実を表している。
今描いている作品が、最後の蓮の花だ。
しかし、それは終わりを意味するのだろうか。
これは終わりではなく、新しい始まりだ。
蓮の花を通して影と光の関係、存在の証明としての影、守護と監視の両義性。これらの理解は、今後どんな題材でも今までとは異なる視点で描けるはずだ。
山を描けば、山の影を通してその存在の重さを表現できる。人を描けば、その人の影を通して内面の深さを描き出せる。風景を描けば、見えない何かの影を通して、隠された意味を暗示できる。
ようやく、次の一歩を踏み出す時期になったのかもしれない。
蓮の花と共に歩んだ十数年余りの期間が終わり、新たな創作の段階に入ろうとしている。
窓の外では、季節が移り変わろうとしていた。
私もまた、新しい季節を迎えようとしている。蓮の花という師匠から学んだことを胸に、未知の領域へと歩みを進める時が来た。
最後の蓮の花は、スタジオの壁に静かに立て掛けている。これから始まる新たな物語の出発点として。
影の意味を理解した今、私の眼には世界が違って見える。すべてのものに影があり、すべての影に意味がある。光と闇の相克の中に、美しさが宿っている。
出会えたあの夕暮れに感謝を込めて、私は新しい創作の旅に出る。
また、いつの日か作品にする時が来るかもしれない。
その時まで、今はお別れだ。
蓮の花は暫く私の中にある。
